平成生まれが平成の終わりに色々考える

近代史を振り返るとかじゃなくて、漠然と思った事など。

スポーツに興味ないが、オリンピックとパラリンピックに思うこと(1597文字)

 そういや今年は平昌冬季オリンピックがあったり、ワールドカップで日本代表がコロンビアに勝ったり、女子テニスで大阪なおみ選手が優勝したりと、何かとスポーツで盛り上がってたみたい。北海道に限った話をすれば、どうせ直ぐにJ2も戻ってくるだろうと思っていたコンサドーレがJ1に残留をしたらしい。やるじゃないの。

 しかし全ての競技に平等に興味がないのですよ自分は。どれだけ日本中が喜ぼうともコロンビア戦の結果を見て「勝ったと喜んでいるが、レッドカード退場からのPKで得た点数と11人対10人の試合にそんなに喜ぶのはおかしいだろ」と難癖をつける始末。なんだかんだいって文句を言う程度にはネット配信で試合観てたんじゃん。それと渋谷に集まってバカ騒ぎしているヤツらはファンとは認めない。

 そんな自分でも印象に残っているスポーツの試合が2つあり、1つは2006年の夏の甲子園の決勝。駒大苫小牧高校と早稲田実業学校が15回まで延長した挙句に決着がつかず、翌日に再試合を行った伝説の試合。野球に興味がない自分も「何だかとんでもなことが起こっているぞ」と思い2日間テレビにかじりついて観ていた。やっぱりあの夏の出来事があるから、あまりファイターズでも活躍は出来ていないかもしれないが斎藤祐樹投手には「頑張ってくれ、あの夏の姿をもう一度見せてくれ!」っと道民として応援してしまうんですよ。野球に興味はないんだけどね。

 もう1つの試合は2006年のサッカードイツW杯のブラジル戦で負けた後に中田英寿選手がセンターサークルで仰向けのまま倒れてるシーン。その直後に引退発表がある訳だが、あの天を仰いでいる時一体何を考えていたんだろうと妙に印象に残っているんですよね。

 どうやら自分にとって2006年は興味ないなりに興味があった矛盾した年だったんですね。なかなか興味深いな。

 

 さて、来る2020年に東京でオリンピックが開催されます。あらゆる問題が噴出しては一体どうなって行くのかが見ものですが、ここで1つ夏季冬季関係なく常々オリンピック・パラリンピックに思っていることを言おう。

 なんでパラリンピックはオリンピックに比べて中継数も特集もがっつり減るんだろうな?理由はおそらくみんな見ないからという単純なことだと思う。オリもパラも平等に興味がないのでほぼ観ない自分が言うのも変な話だが、これって潜在的障がい者差別みたいなもんだと思うんですよね。あまり「障がい者」って言葉が好きじゃないので使いたくは無いが、「障がい者を差別しませんよ!みんな平等!」なんて口ではいくらでも言えるが、結局は自分も含めみんな彼らを下に見ているんだと思う。それが結局中継数の少なさとかに直結してきてるんだと思う。「愛は地球を救う」なんて言って年に一度お涙頂戴なことするぐらいならパラリンピックを含め障がい者スポーツにもっと光を当ててやれよって思う。

 車いすに乗ってテニスしているのとか凄いと思うんだよね。だって座ったままボール打つのも力必要だけど、その上移動にも力が必要だから腕なんてパンパンになるぞ。チェアスキーの疾走感とか普通のスキーと変わらないからな。身体的な欠損はあるけど、欠損のない人より凄いことをしてるからな。

 本当に一番いい方法はオリとパラを同日開催にすることなんだろうけど、やっぱりそれは色々と設備や人員の問題で難しいことなんだろうね。レスリングが五輪種目から除外されそうになった時に、敵対国のアメリカとイラン同じテーブルに着き話し合いをしたように、国際的政治問題すらを超える力がスポーツにはあるんだから、オリ・パラの垣根ぐらい簡単に超えられないもんかね。

 まぁ散々語ったうえで再度言いますが、自分は平等に興味がないので多分東京五輪を見ることはないと思いますが、みなさんはオリンピックもパラリンピックも両方是非観て下さい。他人任せです!(1597)

大人こそ見に行け!アニメ映画「若おかみは小学生!」(1608文字)

映画「若おかみは小学生!」公式サイト

 

 昨今の口コミの力を信じたいので流れに乗ってみようかと。おそらく今年度の邦画No.1が上田慎一郎監督の「カメラを止めるな!」(未見)ならば、アニメ映画のNo.1は間違いなく高坂希太郎監督の「若おかみは小学生!」だと思う。自分は今回の映画で初めてこの作品を知ったが、令丈ヒロ子原作の児童文学作品で累計300万部以上の売り上げを記録しているらしく、この間まで日曜の朝に15分アニメとして放送してたらしい。Wikipediaを見た。

 

 両親を交通事故で亡くした小学6年生の関織子こと“おっこ”がおばあちゃんが女将をやってる温泉旅館「春の屋」でお手伝いをしながら、旅館の幽霊や、同級生のライバル旅館の娘や、変わったお客様などと接しながら“若おかみ”として成長してゆくストーリー。

 冒頭の幸せな家族旅行の帰りの道中で対向車線からトラックが突っ込んでくるシーンは、思わず体をのけぞるくらい怖いの。教習所のビデオでもあんなの見たことないくらい。そして何もなくなった空っぽの家に「いってきます」と言って出て、おばあちゃんの家に向かう電車の中で窓に反射する通路挟んだ席にいる家族を見ている姿にもうグッとくるんだよ。なにも悲しい場面じゃなくて旅館に住んでる幽霊の男の子“ウリ坊”や幽霊の女の子“みよ”、そして子鬼の“鈴鬼(すずき)”などの面々との絡みも面白く笑える。そして!我らがグローリー水領(すいりょう)こと“水領さま”がヤバい。とにかくヤバい。

 

 一旦話が逸れるけど森見登美彦原作、石田裕康監督の「ペンギン・ハイウェイ」も見に行ってきたんだが、ここに何とも魅力的な“お姉さん(本名不詳)”が登場してくるけど、水領さまも含め今年のアニメ映画は「お姉さんの年」だったな。

 

 話を戻す。兎に角みんなに見に行って貰いたいから、ネタバレをしないように語りたいからふわっとした話になるけどまぁ許してくれ。

 1つ目のポイントはとにかく劇中、違和感があるくらいおっこが健気なの。「お前両親死んでるんだから、もう少し落ち込むとかあるだろ?」と突っ込みを入れたくなるぐらい健気に旅館の仕事をして新しい学校との友達とも仲良くしてる。挙句の果てに、母親が亡くなったばかりの親子に「私の両親も最近亡くなったよ」とさらっと言える。何でこんなに健気でいられるのかは、ちゃんと劇中のおっこのセリフで表現されてるんだけど、それが妙にリアルなんだよね。

 2つ目のポイントは死者に対する表現の違和感。また違和感か。例えばドラマでも漫画でもアニメでも、亡くなった人の遺影はお墓に話かけるシーンで、亡くなった人が何か言い返したり会話が始まったりする事があったりする。この作品でもおっこと両親の間でそんなシーンがあるが、そこがだんだん「これは所謂ソレなシーンなの?それとも回想なの?夢か?」って感じで何か変になってくるんだよね。

 このポイントの1と2が物語のクライマックスで違和感が解消されるんだけど、解消された瞬間の「そうだったのか…」ってなるのと、そのシーンで見せるおっこの人としての強さや成長が一番表れるんだけど、もう泣く以外の選択肢がなかったね。

 

 普段は大人かオタク向けのアニメ映画ばかり見に行ってたが、今回初めて子供向けのアニメ映画を見に行ってみた。ちびっ子と親たちの笑い声とかが聞こえてきて、それが何かよかった。映画館での上映中マナーとしていかなる声も出さないのが普通になってきてるけど、子ども向け作品だとまだ声を出す程の感情表現が許されている空間が残っているとは。やっぱり大勢で見ているんだから、ただ黙って見てる良い反応があった方がいいよな。

 

 とにかくだ、そろそろ公開終了するところもちらほら出てきているみたいだから、この3連休にでも見に行ってきてくれ!1800円払っても損のない、むしろ得したと思えるくらいいい映画だと思いました!

「内」にこもるリア充と「外」を目指すコミュ障オタク(1539文字)

 一般的にリア充とかパリピパーリーピーポー、パーティ・ピープルの略)とか呼ばれている人達は、コミュニケーション能力が高く誰とでも仲良くなり肩組んでお酒を飲むイメージがある。いや、もしかしたら自分だけの偏見かもしれない。一方オタクは自分の殻に閉じこもって限られた友達と狭い話ばかりをしているイメージがある。これも自分だけの偏見かもしれない。というかオタクのイメージが自己紹介にしかなっていないな、これ。

 そんな訳で偏見だらけの話は続けるけど、実はコミュ力の高さと人間関係の規模の関係性は世間が思ってるのとちょっと違うんじゃないかと思うのです。例えば40人で1クラスの学校の教室を想像して欲しい。コミュ力の高いカーストの上位に鎮座できるリア充さん達は、大体の人と仲良くなれるのでクラスの2~30人とは仲良くなれる。一方自分の様な石の下のダンゴムシの様な存在はその輪には入れるはずもなく孤立する訳ですよ。となると必然と自分と仲良く出来る様な人を求めて旅にでなきゃならなくなるんですよ。要はリア充は狭い世界で仲間を見つけて、オタクは外側の広い世界で仲間を見つけないといけないって事なんだけど、別にどっちが正しいとか偉いとかの話ではない。自分が中高生の頃と違って、今の中高生はみんなスマホを持っているのでクラスになじめないダンゴムシ諸君もSNSで容易に仲間を見つける事が出来るので大変生きやすくなっているのではないかと思う。いや、むしろLINEやTwitterのせいで24時間双監視社会になっていて大変なのかな?

 とりあえずオタクにとってはSNSは便利な仲間探索ツールなのかもしれないけど、リア充さん達にとってはどうなのか?あまり「インターネット」ってものの広さと危険性を理解していないまま、狭い世界の仲間とだけ繋がる為や連絡手段だけの為に使うと大変な事になる。

 スマホでネット世代を象徴する事件が「バイトテロ(バカッター)問題」だと思う。SNSに悪ふざけ動画や画像を投稿しては炎上する事件が立て続けに起こった。その時「何でこれだけ問題になっているのに、するバカが減らないのか?」って疑問がネットで多く出てきた。答えは簡単で彼らにとってはSNSが「狭い世界の仲間との連絡手段でしかない」からだ。きっと火柱をあげた人達は、自分達に向けてなんて発信していない。あくまでも相互フォローしている実社会での友達に面白画像を見せてあげただけに過ぎない。そして得られる情報は友達の日常だけで、決してネットの住人達や世間が問題視している情報なんて入ってくる隙間がない。電話で通話中に勝手に天気予報や時報が割り込んでくるはずがないのと一緒である。

 まるでリア充をバカにし見下しているような内容になってきたが、決してそうじゃない。最近自分よりも下の世代でリア充系の人たちを接する機会が多く、彼らのTwitterを見てみると身元が特定できそうなアカウント名や、ばっちし本名で使っている人達もいるが総じて鍵付きのアカウントにしている。そして彼らの友達もまた鍵付きのアカウントにしている。ネットリテラシーが高くなるような学校教育が行われているのか、それとも当人に聞こえないように身内で悪口を言うための鍵なのか…。

 どちらにせよ、リア充さんグループの人達はネット内でも実社会の友達だけの狭い世界でコミュニケーションを取って、実社会になじめないコミュ障オタクさん達は広大なネットの世界に向かって、自分という存在を知ってもらいたくて旅に出る。さっきも言ったけど、別にどっちが正しいとか偉いとかじゃない。だけどきっと後者の方が自分に直接関わってくる世界が広い気がする。コミュ障なのに世界が広いってのも何だか変な話だなぁ。(1539文字)

「被災者」の立場になって~平成30年北海道胆振東部地震~(1506文字)

 ライター気取りみたいなタイトルだな。Yahoo!かHUFFPOST当たりが300円くらいで買い取って記事にしてくれないかな、むしろ。

 

 平成の終わりに来たねぇ大きいのが。2003年の十勝沖地震以来の15年ぶりにデカいのが。しかも北海道全域が停電になる前代未聞なのが。自分の住んでいる所は札幌市東区なので震度6弱でした。近所の大きい道は3㎞程陥没したりもしました。とは言っても自分の家は電気と水道が止まっただけで、ガスは使えるから料理には困らないし、水も近所の公園から調達出来た上に午前中に水道、14時半には電気が復旧できたので、あまり「被災者」感はなかったです。だけども10時を超えた段階で電気が復旧しなかった時はさすがに焦り、乾電池を求めて近所のコンビニやホームセンターを自転車で巡ったが、どこも単4か9Vの四角い奴しか売れ残っておらず断念。仕方なしにワインか何かが割れて酒臭いセイコーマートで食料として冷凍の茹でうどんと紙皿とモンダミンを買って帰りました。何故停電で冷凍庫が使えないのにそんなもんを買ったのかのか?バカなりに知恵を使いました。大抵の人はカップ麺を買っていたが、カップ麺を家族4人分作るのに必要な水の量よりもも、既に茹でてある冷凍うどんを4人分温めてざるうどんで食べた方が少ない水の量で済むんじゃないかと考えた結果、冷凍うどんを買いました。結局水の事を心配する前に水道は復旧したし、母親が仕方なしに買ってきた激辛ペヤングをお昼に食べ、晩御飯に豚肉と長ネギをいれた温かいうどんを食べたので、バカ知恵が正しかったどうかは解らないです。

 

 今回大きな地震と大停電に遭って感じた事をいくつかと。

  • 冷蔵庫に入ってて腐っちゃ困るものは、冷凍庫に移しておけば何とかなっ た。機能停止していいるとはいえ、豚肉が6時間程入れてただけど半分くらいは凍っていた。冷蔵庫に入ってた飲み物の結構冷えたままだった。
  • ライトや携帯ラジオを手元にあっても電池がない事もあるので、電池は常日頃から単三・単一はストックしておかなきゃいけないと思った。スマホ・携帯用のモバイルバッテリーも必要だな。
  • 今回たまたまガスが動いたから湯を沸かすとかの、食べ物の調理に困らなかったがガスも止まってたらお手上げだった。カセットコンロとかも用意しておく必要もあるな。
  • これで冬だったら寒さは厚着でどうにかなるけど、水を公園から確保出来なくなるから、雪を溶かして水を確保できるようにろ過の知識と装置も必要だ。
  • コンビニとか有名店だと人が並んでいるだろうから、個人商店系の電気屋でなら電池が帰るんじゃないかと自転車で近所を東奔西走したが、個人商店なんてこのご時世どこにも見つからない。穴場でおもちゃ屋なら電池も売ってるだろうと思ってが、こちらのどこにも見つからない。イオンやセブンイレブンやローソンを怨むつもりはないが、常に商品の充填がが出来ることを前提にした小ストック多商品の便利さと引き換えに、専門性の高い個人商店が並ぶ商店街を消し去ったツケがここに現れたかと思った。
  • 3時8分の地震で叩き起こされて、直後の大停電だったので札幌市内とはいえ、大変綺麗な星空と流れ星を見る事が出来た。呑気なもんだ。

 

 散々、新潟・東北・熊本の震災や北九州・西日本の大雨水害を見ておきながあ、どこか災害って自分と無関係でまるでフィクションのような事だと思っていた。でもあっけなく「被災者」って立場なるもんなんだな痛感させられた半日でした。備えあれば憂いなしとはよく言ったもんだ。

 

 まだまだ小さな余震と、たまに大きな余震があるけどとりあえず1週間は注意しながら生活しないとだめだな。(1506文字)

時代が求めたエンターテイナー「麻原彰晃」(1261文字)

 絶対にこの人は死刑にならないと思ってたが、麻原尊師含む幹部7人を7月6日に同時死刑執行という盆と正月がいっぺんに来たような出来事があった。自然に死ぬのを待つか、もし執行しても絶対に公表しないと思っていた。もし自分が後継団体の幹部ならば「尊師は無実の罪で国家に殺された!尊師が亡くなったことで世界の均衡が崩れる!見よ!今西日本での大雨で多くの人が死んだのは『ハルマゲドン』の始まりである!」とか言って神格化しただろう。それぐらい尊師の死は諸々の問題が起こるんじゃないかと思っている。

 自分は平成4年の生まれなので正直オウム真理教に関する当時の盛り上がり方や問題視する風潮とかはわからず、とりあえず髭面の汚い顔の変なおっさんが「しょーこ~、しょーこ~、麻原しょーこ~♪」と歌っているイメージしかなく、後に起こすサリン事件がどのくらい世間を震撼させたか解っていなかったりもする。いや覚えていないって言った方が正しいのかもしれない。

 最初は単なる宗教家の変なおじさんだったのが、最終的に危険なテロリストになってしまった訳だが、なんでこんなおっさんが世間からもてはやされてビートたけしとんねるずと共演するような「人気者」になってしまったのか。サリン事件という結果だけを見ると当時を知らない人から言わせれば「危険な人だってことが見抜けなかったの?」と疑問に思うかもしれない。

 これだけ受けた理由は二つあると思っている。一つは世間も自分と同じ「変なおじさん」や「面白おじさん」としか思っていなかったんじゃないかと。同列に置くのは間違っているのかもしれないが美輪明宏江原啓之的な、なんだか普通の人では認知できないようなものを「見える」というスピリチュアル系の人や、細木数子的な占い師系の人が定期的に持ち上げられることがあるが、そういった流れの一部なんじゃないかと思う。もう一つは彼らの掲げる終末論が当時のノストラダムスの預言を含める「人類滅亡ブーム」にうまくマッチしたんじゃないかということ。(本当は死刑の事が無ければ「日本と人類滅亡ブームの関係性」みたいな回でオウムに触れる予定だったんだけども、まさかオウム単発で書くことになるとは…。)

 二つ目の理由は今後触れるとして、バブル崩壊後で先の見えない不安の中で、自分たちの価値観と全く違う所から世界を見て助言を下す尊師を「面白い」と思って見てしまったんじゃないだろうか。そして彼の世界観の中でなら自分も輝けると思ってしまう人も多かったんじゃないだろうか。それがその時代のエンターテイメントとして成立してしまったんじゃないだろうか。自分はそんな気がする。

 今回の死刑執行に関する報道で、執行した人の写真に「執行シール」を張ったりと、まるで実況中継の様な放送をして炎上したテレビ局があるだが、そのニュースを見て「あぁ、尊師は最後までエンターテイナーだったな」としみじみ思いました。平成の頭に起きた大事件も平成の終わりと共に終わらせた感じもするけど、多分何にも解決してはないんだろうなぁ。(1261文字)

歪みなく生きた漢、ビリー・ヘリントン(1639文字)

 7月14日はアメリカの元ポルノ俳優ビリー・ヘリントンさんの49歳の誕生日です。…ってなるはずだったのですが、今年の3月2日に交通事故で48歳の若さで亡くなってしまいました。「兄貴」の愛称で慕われていた彼の突然の訃報にネット界では驚きと悲しみに包まれました。

 ここまで「当然ご存知ですよね?」って感じで話を進めているが、おそらく大半の日本人は「誰だそいつ?」状態だと思う。いくらネットの世界で有名だからといて決してYahoo!ニュースのトップを飾るような知名度はなし、年末に特集される今年の亡くなった著名人特集で大杉漣さんや西城秀樹さんや桂歌丸師匠と並んで取り上げられる訳でもない。しかし日本のネット動画文化に多大な影響を与えたのは事実であり、ネットの歴史書を作るのであれば当然偉人クラスの扱いで記述されるだろう。彼はそれぐらい凄い人だ。

 主にニコニコ動画でセクシャルな内容を示唆するタイトルの動画を再生すると、タイトルと全く違う筋骨隆々な兄貴達が取っ組み合っているゲイポルノ動画が流れる「釣り動画」として有名になった。後にゲイポルノでありながら内容のコミカルさがウケてしまい本編動画を切り貼りしたおもしろ動画や、兄貴達のセリフやロッカーや床を叩く音、尻を叩く音(通称:ケツドラム)を使ったハイセンスな動画『ガチムチパンツレスリングシリーズ』を投稿するブームが起こる。特に「空耳」が流行り、兄貴の代名詞でもある「歪みねぇな」はYou got me mad now.の空耳である。兄貴以外の登場人物も基本的に空耳から命名されることも多い。兄貴の対戦相手であるダニー・リーこと「木吉カズヤ」は「どうも、キヨシさん」「あぁん?カズヤ君柄パン?」といった空耳から命名されている。余談ではあるが福島のとある消防署に火の用心の為のポスターとして兄貴の似顔絵を寄贈した人がいてネット内では大盛り上がりしたが、数日後には撤去されてしまったりもした。

 言ってしまえば兄貴をおもちゃにして、ある意味「ゲイをバカにする文化」がスタートと言っても過言ではない。本来ならば米国のゲイビデオ会社や出演俳優達から怒られてもおかしくない。ところが驚くべきことに兄貴本人からニコニコ動画にアプローチをしてきたのだ。2008年のニコニコ大会議(冬)に本人名義でメッセージと花を送ってきた挙句、翌年グッドスマイルカンパニーでまさかのフィギュア化が決定して来日までしてきたのだ。まさに「人間の鑑」の権化の様な人だ。その後も度々ニコニコ動画のイベントの為に来日をし、2012年に千葉幕張メッセでのイベントニコニコ超会議の超パーティーでは1万2千人の観客による兄貴コールは一介のポルノ俳優とは思えない光景だ。

 ゲイビデオをおもちゃとして扱ってきたことを否定しないし、自分を守る為の肯定に聞こえるかもしれないが、この一連の流れって日本のLGBT普及や認知に関して何かいいヒントが隠れているような気がする。当事者からすると迷惑な話なのかもしれない。だけども自分にとっては確かに導入は笑えるネタとしておもちゃ的側面が強かったが、兄貴きっかけでゲイが身近なものになった感じがした。きっと兄貴ファンにはそんな人も多い気がする。

 この兄貴ブームは後に日本以外でもブームになり、お隣中国でも日本以上の盛り上がりを見せ、兄貴自身も中国に何度も訪れてファンと交流をしてたりもしていた。ニコニコ動画では毎年大晦日に人気投稿者が集まって男尻祭称して長尺の合作動画を投稿するが、2017年投稿の【合体】国際的男尻祭2017‐DREAM COME TRUE-【10周年記念】では世界20か国60名の参加者が集まる世界規模のイベントへと発展していった。

 兄貴は「Live Better」という言葉を残している。レスリングシリーズ的な翻訳の仕方をすると「歪みなく生きろ」なのがだ、そう思えるような人生を送れるように自分も生きたいと思いました。R.I.P(1639文字)

顔も名前もわからない誰かを「思う」(1326文字)

 今回書くことは2013年に千葉の幕張メッセで開催したニコニコ動画のイベント「ニコニコ超会議2」の併設イベントとして「超文学フリマinニコニコ超会議2」にサークル参加した時に、書き手を募って好き勝手にニコニコ動画に関して語ってもらう同人誌を作ったことがありました。そのあとがきにも同じようなことを書きましたが、5年経った今でも改めて感じることもあるので。

 自分がニコニコ動画を使い始めたのは09年でTwitterを使い始めたのは10年。そんでもって悪ふざけにゲーム実況動画を投稿したり、文章をネットの隅に不法投棄し始めたのが11年。なんともノリと勢いは恐ろしいもんで振り返ってみれば「頭がどうかしていた」としか思えないが、この頃は他の実況者や他の同人サークルや物書きの人たちを積極的に交流をしていたと思う。いや、自分が交流してた人たちはもっと多くの人と交流してただろうから、こっちの交流範囲なんてちっぽけなもんかもしれないが。最近はネットだけの知り合いも作らず現実で実際に会う人か、かれこて6~7年の付き合いになるネットの知り合いとしか交流しない。出会ってから6年も経つとそれぞれの生活環境にも変化があるだろうから、気が付いたらもうニコニコ動画とかTwitterが2年くらい前から投稿停止していたりアカウントを消したり、それっきり行方が分からなくなっていいる人もちらほらと。それは仕方ない。むしろ8年も変わらず同じところに定住している自分の方がどうかしていると思う。

 

  『「あいつどうしてるのかな?」って思い出すんだろうか?』

 

 5年前に同人誌のあとがきにこんなことを書きました。今まさに思っています。更新の途絶えたアカウントやその人の作った同人誌を読みながら。不思議なことに疎遠になった中学・高校の同級生なんて1ミリたりともその後の人生の心配なんてしちゃいないのに、顔も本名も解らない誰かのことの方がずっとずっと心配してしまう。多分同級生は仲の良い悪い関係なくそのうちどっかで会う可能性があるからどうでもよく、心配する必要も特にない。だけどもネットだけでの関係性はお釈迦様とカンダタを繋ぐ蜘蛛の糸程度にしかなく、あっけなく切れやすい。だからこそ必要以上に心配し、気になってしまうんだと思う。無駄にSkypeで夜中に3時間も話し込んだ「あいつはどこかで元気にしているかな?」と。

 自分が初めてインターネットに触れた小学5年生くらいの時は2ちゃんねるとかを見て「ネットには危険な輩しかいねぇぞ」と思っていたが、15年くらい経って国民総SNS時代みたいになったおかげで、顔も名前も知らない人とのコミュニケーションを取ることが一般的になってきたから、普通な人イイ人だらけになってきた。いまだに「ネット=危険」な思想が蔓延しているが、ネットも現実も危険なヤツの比率なんてそんなに変わりがない気がする。だってイイ人にネットも現実も関係ないもん。

 

 年に数回しか呟かなくたって、その呟きを見ると少しほっとする。だからこそ、たまには「生存確認」の為にもSNSとかに顔を出してください。顔も名前もわからないそこの「あなた」を待っている人がきっといます。自分は待っています。(1326文字)